中山道歩き旅2泊3日の旅2日目は、本日の宿泊が横川近くの国民宿舎裏妙義としたので時間的にはだいぶ余裕があるため、横川付近の見所である丸山変電所や碓井鉄道文化むらを見学することにした。
まずは、宿泊したビジネスホテル宝泉安中館でゆっくり朝食を食べ8:00に2日目の歩き旅スタート。
宿泊したホテルを出て最初の見学スポットは、旧中山道と国道18号線が分岐する交差点にある郷原の妙義道常夜燈。
文化5年(1808)に地元の妙義講の人々が建立したというもので、台座に「是より妙義道」と刻んである。
妙義神社の参拝者への道しるべとして、その役割を果たしていたそうだ。
旧道は一旦18号線から離れ、山あいの道を下って再び登り返して国道18号の下をくぐるとすぐに前方の展望が開け妙義山の山なみが迫ってくるようになる。
一昨年5月に始めてあの山の頂を巡ってきました。
これが、その時の山行記録ですが、特異な山稜から見てわかるようにスリリングな岩場のルートが続く山でした。
次が県指定の重要文化財になっている不動寺の仁王門と石塔婆です。
案内板には「仁王門は間口6.05m、奥行3.5mの三間二間の柿葺単層・切妻造りの門で蟇股・欄間などに桃山時代の作風をよく残しているが、 江戸時代初期の改築と推定される。作者や制作時期を知る資料が未詳であることいは残念である。」とある。
古い立派な門内で睨みをきかせる仁王様も歴史を感じさせるものでした。
仁王門の手前にはこの石塔婆がある。
石塔婆は三基並んだ異形板碑でが置かれているが、観応三年(1352)などの文字が刻まれているということなので、600年以上も時間を遡るものです。
補陀寺の隣にロウバイが見事に咲いているエリアがあった。
ここで少しの間、妙義山を背に咲く満開の花々を楽しませていただきました。
今日のメインの見学スポットは信越線の踏切を渡った所にある五料の茶屋本陣です。
茶屋本陣は宿泊するためにあった施設ではなく、大名や公家などが休憩や昼食などのために利用した施設です。
五料の茶屋本陣は2軒並んでおり、両家とも中島姓なので、地元の人は今も「お西」「お東」と呼んでいるそうです。
正面に見えているのがその「お西」の方です。
ここが西側にある「お西」で、この建物は文化三年(1806)の大火で「お東」とともに焼失した後、同年中に再建されたものというものです。
前庭は枯山水の美しい庭で、高台にあるため正面の妙義山を借景とする素晴らしい景色が広がっている。
お座敷は奥から「上段の間」「下の間」「表の間」 の三間があり、この右側の廊下も畳敷が座敷のように続いている。
広い二階は展示室になっています。
中山道分間延絵図の展示などもあり参考になりました。
こちらが「お東」です。
内部は「お西」と同じような造りになっています。
こんな「ケズリバナ」という飾り物の展示もありました。
小正月のつくりもので、神棚・仏壇・木戸神などに供えるもののようです。
茶屋本陣をあとにし、信越線の踏切を渡って急坂を登って行くとこの夜泣き地蔵がある。
荷を積んで来た馬方が、荷のバランスをとるために落ちていた地蔵の首を付けて深谷まで行ったが、帰りは深谷に捨ててきてしまった。
ところが、その後夜になると「五料恋しや」と泣き声がするので、哀れに思った深谷の人がこの首を五料に届け胴に乗せたという。それが、この夜泣き地蔵のいわれというものです。
手前の石が茶釜石で、この石を叩くと空の茶釜のような音がするのでその名が付いたそうだが、確かに叩く場所によって軽い響きのある音がする。
中に空洞部分がありそうな感じだ。
茶屋本陣のスタッフに教えてもらった金洞山の先にある星穴岳に開いた星穴のビュースポットです。
その昔、百合若大臣という大男の若者がいて、力も相当あったらしく大きな弓と長い矢で、川向うの山に向け「よしあの山の首あたりを射ぬいてみよう」と思いつき、満身の力をこめて射なった。
これを見ていた家来の1人も負けづと思い、腰にぶらさげていた弁当のむすびを力いっぱいほうり投げ、山には二つの穴があきました。それで今でも二つの穴が、ここから見ると夜空の星のように見え、この山を星穴岳とよぶようになったと云われる。
その時、百合若大臣が後ろの足をふんがいたのが、この足痕石だったということで、右の小さな説明板に星穴の謂れが書かれています。
丁度お昼時に横川駅に到着です。
もちろん昼食は駅前にあるこの峠の釜めし。
30年ぶり位だろうか、久々にゆっくりと味わいさせていただきました。
碓氷関所の門
碓氷の関所は元和9年(1623)に「入鉄砲に出女」を取り締まるために設けられた中山道の関所。
1700年の後半になると、街道交通の増大に対応を迫られ関所改めもゆるやかになり、明治二年(1869)年に関所は廃止となる。
当時から残された門の柱と扉、屋根材の一部と台石を使用して昭和34年に復元された関所の東門が敷地内の番所跡位置にあるこの門です。
今日は、横川から旧丸山変電所まで行き碓氷鉄道文化むらを見て、宿泊先の国民宿舎裏妙義に向かうつもりだったが、坂本宿に向かう途中の上信越道の高架下の道路が丸山変電所の遊歩道に繋がっていると思い、この高架下の新しい道路をどんどん降りて行ったが降り切った先は碓井川前で行き止まりになっていた。
一旦は、川の渡り石で対岸に渡り登って川行こうとしましたが、断念。
止む無く、再び来た道を戻り坂本宿まで行ってからアプトの道で戻り、変電所に行くことにした。
高架下から少し歩くと坂本宿の江戸側の下木戸が復元され、ここから坂本宿に入る。
正面に見える山が刎石山で、中山道はあの山を越えて行く。
坂本宿に本陣が2つあり、ここ佐藤本陣は上の本陣、金井本陣は下の本陣とも呼ばれた。
文政年間で31の大名が往来したが、東に碓氷関所、西に碓氷峠がひかえているため、坂本宿への宿泊が必然となり、その結果2軒の本陣が必要になったようだ。
旅籠かぎやは坂本宿の面影を残す代表的な建物ということです。
高崎藩納戸役鍵番をしていた当家の先祖が、坂本に移住して旅籠を営むにあたって屋号を「かぎや」と付けたと言われています。
「かぎや」の古い看板もあり往時を偲ぶことができる。
天然温泉峠の湯からアプトの道を下って来て、ようやくこの丸山変電所に到着。
丸山変電所は明治45年、横川から軽井沢間の電化に伴い建設された施設で、奥の横川側の建物は蓄電室、軽井沢側が機械室の2棟の建物からなっており、国の重要文化財に登録されています。
昭和38年の新線開通とともに役目を終えましたが、平成6年に修復され現在も往時の様子を伺うことが出来ます。
今日の最後は碓氷峠鉄道文化むらの見学です。
普段体験できない機関車や電車の運転席に座ったり、資料館の鉄道ジオラマを見たりで一時を過ごし、宿泊先の国民宿舎裏妙義に送迎のお願いをして横川駅に戻り今日の歩き旅を終える。
今日の宿泊は国民宿舎裏妙義なので、宿に連絡をして横川駅まで送迎用のマイクロバスにて迎えに着ていただき宿きに入る。
国民宿舎裏妙義は妙義湖の奥にある妙義の山々に囲まれた大きな宿でしたが、客は少なく広いお風呂も一人だけなので、存分にのんびりさせていただき疲れをいやすことが出来ました。
写真は翌朝撮影。