甲州街道10日目の旅は台ケ原宿のつるや旅館からのスタートです。
早朝、天気が良さそうなので旅館の2階非常口から屋上に上がると、そこは素晴らしい展望が得られるビュースポットでした。雲もなく周囲が見通せるとは思っていなかったので感激でした。
展望は近くに中山があるため南側は見ることはできませんが、西側には甲斐駒ヶ岳や鋸山、東側は金ヶ岳・茅ヶ岳の山塊、北側の八ヶ岳は七里岩台地の上に頂上部の連なりを見ることができました。
今日は台ケ原宿つるや旅館から教来石宿・蔦木宿と歩き、富士見駅までの歩きとなります。
2022/8/24(水)単独 行動時間 7時間40分
台ヶ原宿つるや旅館7:40-経来石宿9:20-蔦木宿12:10-ドライブイン赤石(昼食)12:55~13:20-富士見駅15:20
つるや旅館の屋上から日の出前に見た東側の風景です。
中央に金ヶ岳、その右に茅ヶ岳が美しい姿を見せてくれました。
左手には金峰の頂と思われるピークも確認できます。
そして西側には甲斐駒ヶ岳です。
右手には鋸山の頂も見えます。
北側には七里岩台地の上に八ヶ岳の山頂部の連なりも確認できました。
街道歩きを始めると、旧名主宅の豪壮な建物が目につきます。
ここは私設図書館「懐古の蔵 橋場」として利用されているようです。
玉斎吾七の句碑「槍もちのおくれて通る日長かな」があります。
石尊神社の参道中央口の鳥居です。
石尊神社はここから西に2Kmほど離れた所にある神社で武田家や徳川幕府の崇敬が篤かったようです。
石尊神社の南参道口にも常夜燈がありましたが、ここ北参道口にも尊大権現常夜燈があります。
傍らには文政10年(1827)建立の供養塔もあります。
街道から土手を上がって行くと畑の中に経来石がありました。
馬頭観音四基と男女双体道祖神一基が祀られています。
村人はこの大石を「日本武尊が酒折を経て来て休んだ石」であるところから、「経来石」(へて こ いし)と呼び、後に”経”の字が”教”と誤記され、「教来石」(きょうらいし)となり、これがそのまま地名になったようです。
下教来石村の諏訪神社です。
元和三年(1617)の創建で、本殿は天保十五年(1844)信州諏訪の宮大工棟梁立川和四郎冨昌手により見事な彫刻が施され再建されたものということですが、残念ながらその彫り物の見学をスキップしてしまいました。
境内には不動明王はじめ多くの石仏群が散在しています。
教慶寺の地蔵菩薩。
近くの教慶寺を開山した蘭渓禅師が村人の難儀を取り除くために鎮座させたもの。
両側に庚申塔、甲子塔、馬頭観音等が並んでいます。
鳳来山口関跡には大きな碑が設置されています。
武田信玄が設けた甲州24ヶ所の口留番所の一つで、信州口を見張った国境の口留番所ということです。
釜無川に架かる国境橋を渡った先に”危険さわるな” ”高圧電柵”のカンバンが設置されたフェンスが待ち受けていました。
通り抜けることを考えたが、草がボウボウのため安全を考え新国境橋まで戻り迂回することにしました。すぐ目の前に下蔦木の信号が見えているのに残念・・・・
普通の害獣保護柵の設置で充分だと思うが対処願いたい。
国道20号まで戻り、新国境橋を渡り、いよいよ長野県に入る。
宝篋印塔の基礎石といわれる応安の古碑は後の四角形の石造物と思われる。応安五年(1372)建立。
子乃神、丸西天と刻まれた碑や小さな石仏が多く並んでいます。
蔦木宿に入ります。
すぐに常夜燈や六角灯篭などが並んだエリアがあります。
大阪屋本陣跡です、本陣表門を残しています、本陣母屋は弘化三年(1846)の建築でしたが、他所に移築されその後、老朽化の為解体。
本陣表門は元治元年(1864)の大火後の建築。
諸水橋近くの国道20号との合流地点に道祖神(石祠)と庚申塔、甲子塔が並んでいます。
このあと、近くのドライブイン赤坂にて25分ほど昼食休憩です。
道祖神、馬頭観音、石祠などが多く並んでいました。
瀬沢集落の吉見屋の先に小さな道標があります。
「右 山浦 左 すわ道」と刻まれています。
江戸日本橋より四七番目の塚平の一里塚です。
傍らに道祖神が祀られています。
塚平の一里塚で甲州街道の歩きを終え、分岐から20分弱で富士見駅到着です。
甲州街道10日目の旅は約19Km を7時間40分で終了となりました。