昨日に引き続き、今日は中山道の歩き旅22日目を関ヶ原からスタートさせる。
今朝、ホテルを出発し関ヶ原西町のコンビニで軽く朝食を済ませてから、今日の目的地の高宮宿に向かいます。
この杉が「月見の宮の大杉」と云われている杉の古木です。
「春日神社」の境内にあるこの大杉は樹齢約800年、周囲5.8m、高さ約25mの巨木で、「関ケ原合戦図屏風」にも1本杉として描かれているものだそうで、大変貴重な存在になっています。
8世紀の初めに天武天皇はこの場所に不破関を設置しました。
「不破関」は、越前の「愛発関」、伊勢の「鈴鹿関」と並んで日本三関のひとつと呼ばれています。
通行人は目的地や携帯品などを書いた証明書を見せて通らなければなりませんでしたが、延暦8年(789年)に世の中が静まり、その必要性がなくなったため取り壊されたそうです。
また、この不破関を境に関東・関西の呼称が使われるようになったともいわれています。
藤古川を渡って関ケ原宿の美しい家並みを見ながら今須に向かいます。
岐阜県と滋賀県の県境にやってきました。
ここは、江濃国境にまつわる「寝物語」の伝承地です。
昔、国境の小さな溝を隔てて建つ両国の旅籠の泊まり客どうしが、寝ながら話しができたことから付いた呼称ということです。
ここが県境かと思わせるような小さな水溝なので、寝物語のような話が生まれるのに何故か納得できます。
美濃の国から近江の国に入り柏原宿に到着です。この宿もまだまだ街道筋に古い家屋が残っており、美しい佇まいを見せてくれています。
左手に見えるのが伊吹堂亀屋で 安藤広重の「木曽海道六拾九次乃内 柏原」にこの「伊吹堂かめや」が描かれています。
醒井宿は、西行水、十王水、居醒の清水などの湧水を集めた地蔵川が街道沿いに流れています。
梅花藻が花開く5月になれば、清冽な美しい流れの中に漂う水中花を楽しむことが出来るようですので、是非見てみたいと思いますが今はまだその季節でなく残念です。
鳥居本宿の入口にこんな旅人を模した姿の像があり、迎えてくれました。
ちょっと高い所にありすぎて、表情など細かい所が確認できないのが残念ですが、柱に「おいでやす彦根市へ」と記され迎えてくれます。
反対側の虚無僧姿の柱には「またおいでやす」と彫られています。
鳥居本宿に入ると、江戸期から懐中胃薬「赤玉神教丸」を製造販売している有川家の立派な家構えを見ることが出来ました。
この宿のシンボル的な存在になっていいる歴史的な建屋です。
鳥居本宿では合羽の形をした木綿屋の木製看板を目にすることが出来ます。
看板には「本家・合羽所」と書かれているのがかろうじて判ります。
案内板によると「享保5年(1720)馬場弥五郎が創業したことに始まる鳥居本合羽は、雨の多い木曽路に向かう旅人が雨具として多く買い求め、文化・文政年間(1804~1830)には15軒の合羽所がありました。天保3年(1832)創業の木綿屋は鳥居本宿の一番北に位置する合羽屋で、東京や伊勢方面に販路を持ち、大名家や寺院、商家を得意先としてで開業して大八車などに覆いかぶせるシート状の合羽を主に製造していましたので、合羽に刷り込んださまざまな型紙が当家に現存します」とあります。
そして、こちらは近くにある合羽所「松屋」ですが、こちらも案内板で「江戸時代より雨具として重宝された渋紙や合羽も戦後のビニールやナイロンの出現ですっかりその座を明け渡すこととなり、鳥居本での合羽の製造は1970年代に終焉し、今では看板のみが産地の歴史を伝えています」とあるように、ここ鳥居本宿は合羽の町の面影をあちこちで見ることができます。
鳥居本宿で古い大きな道標を見かけました。
中山道と彦根道の分岐を現すものです。
右彦根道・左中山道京いせとなっており、背面に「文政十丁亥秋 建之」(1827年)と刻まれていましたので、今から190年ほど前に建立されたもののようです。
今日の目的地高宮宿にやってきました。
高宮も街道沿いにうだつを上げた見事な商家が見られます。
宿の中心部に入る前に南彦根から帰宅の途につきましたので、次回は改めてこの高宮宿を皮切りに旅を続けたいと思います。
今回の旅の総歩行距離はGPSログ記録で32.3Kmで、所要時間は約9時間30分という結果でした。