奥州道中の歩き旅は初日に宇都宮宿から喜連川宿、2日目に喜連川宿から大田原宿まで歩きましたが、
今回3日目として、一泊二日で前回の終了地点とした大田原宿の金燈籠をスタートし鍋掛宿・越堀宿・
芦野宿と歩き、芦野温泉に宿泊。
そして翌、4日目に芦野温泉から奥州街道の終着地点である白河宿の女石追分まで歩き、宇都宮宿から
都合4日間にわたる奥州道中の歩き旅を終えることができました。
自宅を早朝4時半ごろに出発し、新幹線の那須塩原から1駅戻って西那須野駅に到着し、駅前からバスに乗って、降り立ったのが、ここトコトコ大田原のバス停。
早速、前回の旅の終了地点とした金燈籠のある交差点に移動し、ここから歩き旅再開です。
大田原宿の枡形を過ぎ、蛇尾川(さびがわ)に架かる蛇尾橋を渡ります。
この川は水量も多くなく、穏やかなようですが、蛇尾川の2つの顔として暴れ川の側面もあるようです。
案内板にあった大正初期の写真には当時は短かった橋も洪水で度々流されたとありました。
棚倉(たなぐら)道への追分に元禄七年(1694)に建てられた道標があります。
判別はしずらいですが、正面に「南無阿弥陀仏」側面に「右たなくら 左しらかわ」と刻まれています。
那珂川に架かる照明橋です。
さすが那珂川、欄干のアユがよくマッチしています。
鍋掛宿は奥州道中のこの難所の那珂川を控え、対岸の堀越と2宿で1宿の機能を果たしていたようで、鍋掛の名の由来は、那珂川の川留めによって旅人が溢れ、宿住民が総出で鍋を出し、炊き出しを行なったことに由来しており、川留めになると大いに賑わったようです。
寺子の一里塚です。
この塚は江戸日本橋から四十一番目の塚で、道路改修により白河寄りにあったものを50mほど移築し整備したというものです。
余笹川の寺小橋を渡り、少し歩くと大きな牛の座像「畜魂碑」が目に飛び込んできました。
お目当ての「弁慶の足踏み石」(馬頭観世音碑)は青面金剛像、二十三夜塔の並びの左端にありました。
「弁慶の足踏み石」は文化四年(1807)建立の馬頭観世音の側面に弁慶が踏み抜いた草鞋跡というもので、案内板によると「地元の言い伝えでは、源義経が平家との戦いの後に、兄の源頼朝と対立し、家来の武蔵坊弁慶らとともに奥州街道を通り、奥州平泉へ落のびる途中、石田坂にて一休みし、さて出発しょうと、弁慶が道端の石を足台にして馬に乗ろうとしたところ、弁慶の重みで石の表面が履いていた草鞋の形に窪んでしまったとされている。
後にその石を三つに切り分け、その一つに馬頭観世音の文字を刻み、街道を往来する荷駄馬の守り神とするため、ここ石田坂に設置したという。」とありました。
夫婦石の一里塚は江戸日本橋より四十三里目にあたる塚で、両塚とも残しています(那須町史跡)
午後3時55分に街道から500mほど離れた所にある芦野温泉に到着です。
今日、歩き始めた大田原から7時間20分ほどでの到着で、距離はGPSログ記録で22.1Kmという結果でした。
芦野温泉は今回の奥州街道の旅の機会がなければ訪れることは無かったのでしょうが、ここの温泉で体感した薬草風呂は5分もたたないうちに体のあちこちに痛みが走り、入っていられない状況となるもので、正に薬草の効果を肌で感じるもので驚きました。