舞阪の民宿で迎えた東海道五十三次の旅2日目の朝も昨日に続いて快晴だ。今日も長丁場でこの舞阪から新居、白須賀、二川、吉田宿と歩き豊橋駅から帰宅の途につく予定でスタートする。
民宿たなべ荘を出発し、まず近くの舞阪漁港へ。
漁港といってもここで見かけた漁師さんはいなかったが、ここは停泊場なのかも知れない。
そして東海道に戻りまずこの脇本陣の見学に訪れたが、残念ながらここの開館時間が午前9時ということで外観を確認することしか出来なかった。
ここは天保9年(1838年)建築の旧脇本陣「茗荷屋」(みょうがや)の書院棟が現存していたものを残そうと平成9年に建物を復元したと云うことだ。
ここは北雁木(きたがんげ)と呼ばれる場所で、階段状になっている船着場を雁木と云うそうだ。
現在残っているのは大名や役人用のこの北雁木のみで、ほかに武家用の本雁木、庶民用の南雁木があったようだ。
ここにはご覧の大きな常夜灯が設置されている。
東海道はここから渡し船で浜名湖を渡り新居関所内の渡船場まで海路を行くことになるが、今は浜名湖を渡る橋で新居関に入ることになる。
舞阪を後に浜名湖を渡る橋から南側を見ると遠くに立派な橋が見える。
これが浜名湖の今切(いまぎれ)を跨ぐ浜名バイパスの浜名大橋で、橋の向こうが遠州灘になる。
もとは陸続きだったが明応7年(1498年)の津波で湖水と海が通じ、さらに永正7年(1511年)の大津波でその間が広がり、今切の名が生まれたという場所だ。
新居関所は、正式には今切関所といって、慶長5年(1600年)に今切れ口近くに設けられたが、津波の災害で2度の移転を繰り返した。
現在の建物は安政2年(1855年)に立て替えられ、関所建物としては全国で唯一現存するものを昭和46年に解体修理を行い、国の特別史跡として保存公開されたということだ。
この関所と隣に併設されている歴史資料館は開館時間が9時からで丁度9時を少し回ったため早速内部を見学する。
左は関所の面番所で通行人の取調べを行う関所役人の様子ですが、「入り鉄砲に出女」といわれるように、改め女が関所を通る女性(特に江戸から出る女性)に対して調べたり、江戸に持ち込まれる「鉄砲や武器」に目を光らせる厳しい取り調べを行っていた。
次に近くの紀伊国屋に寄る。
新居宿の旅籠紀伊国屋は、明治7年(1874年)の大火で焼失し、建て替えられ昭和24年(1949年)まで旅館業を営んでいたが江戸時代後期の旅籠屋の様式を残していたことから、街道文化を伝える施設とし整備された。
風呂場もありましたが、当時はこのようなただ湯をためるだけの丸おけのお風呂だったとは思いませんでした。
紅葉寺跡あたりから街道沿いは長く続く松並木になる。
松はまだそう年月は経っていないのか、まだ若々しい松だ。
蔵法寺の潮見観音は承応3年(1654年)に遠州灘の海中から漁師の網にかかって出現したというものです。
うないの松の側にあった観音堂にまつられていたが、明治9年本堂の内陣に移された。 今回の東海道を歩く旅では今まで平地を歩いていただけであったが、この潮見坂の登りは急傾斜で蔵宝寺付近から一気に高度を上げる道になっている。 ここは遠州灘を見下ろす美しい場所として有名だが、坂の途中から振り返ると海が大きく広がってすばらしい眺めにだ。 火事の延焼を食い止めるために植えられた槇(まき)の木は特にこの白須賀宿では民家の軒が連なっていたため植えられていたようですが、静岡県内で残っているのはここだけだと云うことです。 二川宿本陣は、文化4年(1807)から明治3年(1870)まで本陣職を勤めた馬場家の遺構で、改修復原工事によって資料館として一般公開されている。 訪れたのが丁度3月3日だったため展示物以外にところせましとお雛さまや吊るし飾りが飾られていました。 江戸時代後期から明治まで二川宿で旅籠屋を営んだ倉橋家の「清明屋」は文化14年(1817)に建てられたものを解体修理して本陣と一緒に公開されています。 街道に面したミセの間にこのような人形があり当時の様子がリアルに再現されている。 ミセの間とは通りに面した一番目の部屋のことで、奥の住まいに対して「見せの間=店の間」と呼ばれると云うことです。 向山の大池向山大池にも立寄ってみました。 ここは、吉田城築城の際に作られた農業用の人工のため池だが、現在は向山緑地公園の中にあって遊歩道などが整備され市民の憩いの場になっている。
吉田城は昭和29年に復興された本丸西北隅の写真の鉄櫓(くろがねやぐら)のみが豊川のほとりに建っており公開されています。 今回もたくさんの神社に立ち寄ったが、最後にこの吉田神社でお参りをする。 ここは手筒花火発祥の地とされており、境内にはその記念碑もありました。 今日最後は吉田宿本陣跡だ。 宿場には本陣二軒・脇本陣一軒・旅篭六十五軒があり、この辺りは宿の中心部として最もにぎわったようだ。
二川を過ぎて少し遅い昼食を街道沿いにあったお蕎麦屋さんですませ再び歩き始める。
そしてしばらくすると見事な松の切り株があった。
左の写真はその切り株跡にあった碑に埋め込んであったこの飯村地区の昭和33年時点の写真です。
当時はこの付近は巨大な松並木が続く街道だったようですが、残念ながら昭和40年代に道路拡張や松くい虫の被害で消滅してしまったそうです。
今日の行動時間9時間40分(昼食時間込み)で歩行距離33.3Kmでした。
昨日と今日の2日間で66Km歩いたことになる。
今日は白須賀から二川に至るまでの移動は見所が少なく、ただひたすら歩くだけの時間で大変でしたが、その分二川宿の町並みなど印象的でした。
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