前回、大湫宿を見学した後、釜戸駅から帰宅の途についたが、今回は再びその大湫宿から中山道歩きの旅をスタートさせるため釜戸駅に降り立った。
駅前にタクシーがあれば大湫まで利用するつもりだったが、タクシーが無かったので電話で問い合わせしたものの、戻りに20分ほどかかるといわれ駅前から歩くことにした。でも、始終登り坂が続く大湫までの道は意外に長くタクシーを待たなかったことを後悔。結局55分歩いて大湫宿に到着することになりました。
釜戸駅から大湫宿に入り、まず高台にある観音堂に立ち寄りました。
観音堂は文政7年(1824)の宿大火で焼失し、現在のお堂は弘化4年(1847)に再建されたものと云うことですが、それほどの古さを感じさせない立派なものです。
堂の天井には花鳥草木の絵が描かれているそうですが、残念ながら入口のガラス越しには少しを確認できる程度でした。
大湫病院の近くまで歩いてくると街道沿いに二つ岩と呼ばれる巨大な大岩が見られます。
烏帽子岩と母衣岩と名付けられているようですが、道端にいきなり二つの大岩が並んでいる光景は誰でも驚かせれるもので、昔から街道の絶好の目印になっていたのではないでしょうか。
全長約730mの日本最長の石畳が残っている琵琶峠への東の入口に到着です。
ここから峠の頂上までは10分弱で、石畳の石もそれぞれが大きく、傾斜も緩やかなので、歩きやすいものでした。
峠から少し下った地点にこんもりした形の「琵琶峠一里塚」とも呼ばれる八瀬沢の一里塚があります。
雪化粧していたため、二つの塚は一層際立っていました。
細久手宿で現在も旅館として営業している「大黒屋」です。
尾張藩指定の本陣で安政6(1859)年に建築された建物で、国の登録有形文化財に指定されています。
秋葉坂の三尊石窟と呼ばれている石仏です。
三室に分かれた石窟で、右の石室には、明和5年(1768)の三面六臂(顔が三つで腕が六本)の馬頭観音立像、中央には一面六臂の観音坐像が、左石室には風化の進んだ石仏が安置されている。
石窟の右端に残る石灯篭の棹には、天保11年(1840)の銘がある。
鴨之巣一里塚です。
この付近は琵琶峠近くの八瀬沢の一里塚(江戸へ91里、京都へ43里)に続いて、奥野田一里塚(江戸へ92里、京都へ42里)、そしてこの鴨之巣一里塚(江戸へ93里、京都へ41里)といずれの一里塚も両塚とも見事に残されています。
文久元年(1861)、皇女和宮の行列が中山道を下向し、徳川家茂公に輿入れの際、一行が休憩する御殿がここ諸之木峠の高台に造られたことから、ここを御殿場と呼ぶようになったといいます。
和宮の行列は姫宮(ひのみや)としては中山道最大の通行といわれ、四千~五千人にも及ぶ大行列だったようです。
謡坂の石畳の坂道にやってきました。
このあたりの上り坂がとても急なため、旅人たちが自ら歌を唄い苦しさを紛らわしたことから、「うたうさか」と呼ばれていたのが次第に転じ、「うとうざか=謡坂」になったのだともいわれている場所です。
御嶽宿の商家竹屋は、あいにく年末の休館日のため見学することができませんでした。
主屋は明治10年(1877)頃の建築とされる建物ですが、そのたたずまいは質素でですが風格があります。
釜戸駅から6時間25分、大湫宿からは5時間15分、15時5分に御嵩駅に到着しました。
予定では宿泊先の可児のホテルまでは歩けずに、途中からこの名鉄広見線を利用することになるのではないかと思っていましたが、想定以上に早く着きました。
今日は電車に乗ることなく、このまま歩いて可児のホテルに入れそうです。
御嵩宿からは伏見宿へは、往時の面影を残すものがなく始終国道を歩くことになるが、御嵩駅から丁度1時間で、伏見宿の本陣跡碑を確認。
この後、中山道から離れ可児市内ホテルシンセリティに向かい歩き旅1日目を終える。
結果的に今日の歩き旅はGPSログで30.6Km、時間は8時間23分でした。