年末の中山道歩き旅2日目は可児市のホテル シンセリィからスタートし、街道に戻ってから太田宿、鵜沼宿、加納宿と巡り、岐阜駅から帰宅するものになります。
今までと違いほとんどが市街地を歩く旅で見所は少なくなり、ひたすら街道を歩くことになります。
コース中、舗装されていない道路は鵜沼宿手前のうとう峠付近のわずか1Kmにも満たない箇所だけでした。
ホテル シンセリティを7時15分ごろ出発。
まず、国道21号線の中山道まで1.3Kmほどを歩き、街道歩きをスタートさせることになります。
太田橋で木曽川を渡りますが、この付近が中山道の難所のひとつ「太田の渡し」で「木曽のかけはし」、「碓氷峠」とともに三大難所といわれた渡し場があった所です。
江戸中期に船着場ができ、昭和2年に架橋されるまでは、ここで渡しが続いていたということです。
大田宿で特に目を引くのがこの「旧太田脇本陣林家住宅」です。
明和6年(1769年)に建てられた国重要文化財の建物で、両端にあがるうだつなど、江戸時代そのままの姿を今に伝えています。
明治15年(1882年)、板垣退助が岐阜で遭難する前日に逗留した場所としても有名です。
そしてこの「旧太田宿本陣門」が林家住宅の前にあります。
この門は、文久元年(1861年)に、仁孝天皇の皇女和宮が14代将軍徳川家茂に嫁ぐために下向した際に新築された門で、元は本陣の西正門であったものを東門のあった現在地に移したもので、旧本陣の偉容を偲ばせる格式のある門です。
中山道会館にやってきました。
もちろん年末なので会館は休館です。
広場の中央にヤドリギが寄生した大きなエノキが聳えています。
この大木は美濃加茂市の保存樹に指定されているそうで、寄生しているヤドリギが目を引きました。
中山道は 岩屋観音付近で国道から右手に進み、岩をへつるように登るとこの観音堂です。
19世紀初めに建築されたと推定されるそうですが、観音様は岩穴の奥に安置されています。
岩屋観音から元の国道に降りると、木曽川の流れを眼下に望むことが出来ます。(歩道が無い側なので、車がいない時に渡って撮影)
太田宿からうとう峠へは右手の山の中に向かいますが、直接右折する道は無く、左車線から一旦国道の下を潜り右手のこの山道に入るようになっている。
「うとう峠の「うとう」とは、疎(うとい・うとむ・うとう)で、「不案内・よそよそしい・気味の悪い」などの意味があると考えられます。
このうとう峠と鵜沼宿との間は、十六町(約1,8㌔)に及ぶ山坂で、長坂・天王坂・塞の神坂などの険しい坂が続き、「うとう坂」と総称されていました。」
現地 各務原市教育委員会 掲示板より
うとう峠の「一里塚」は、峠を西側にやや下ったところにあります。
近くの案内板に当時の旅のこんな記載がありました。
「江戸時代に、各務原の一部を治めていた旗本坪内氏の「前渡坪内氏御用部屋記録」を見ると、天保3年の文書に、この坂を通って10日ほどかけて江戸の屋敷へ到着する計画が残されています。それによると1日の距離は9里(36Km)から10里(40Km)が多く、関東平野に入ると14里(56Km)という場合もあります。」
当時の旅行の1日の歩行距離はすごいものがあります。
大安寺大橋を渡り江戸から数えて52番目の鵜沼宿の中心部に入ります。
すぐに左手に旧大垣城の立派な鉄門を見ることが出来ます。
蘇原の安積家の門として使われてきたものをここに移築した際の解体時の調査で、土台に墨書が発見され、大垣城本丸の門であったことが分かったということです。
(各務原市指定重要文化財)
本陣の正面に酒造メーカ菊川の風格ある建物があります。
明治期から酒蔵を営む老舗のようです。
この坂井家脇本陣は、江戸時代末期の鵜沼宿各家の間取りを描いた「鵜沼宿家並絵図」をもとに、現存する脇本陣の外観や内装、意匠などを参考としながら復元したものということです。
新加納の一里塚跡です。新加納は、東の鵜沼宿、西の加納宿の距離が17Kmと長いため立場と呼ばれる休憩所が設けられ、人馬や荷馬が休息をとり、また茶屋が設けられ旅人が休息し、「間の宿新加納」としても栄えたようです。
近くの案内板にこんな昔の写真もありました。
細畑の一里塚にやってきました。
こんな町中に両塚とも残っている一里塚は大変貴重な存在です。
加納宿は城下町でしたが、その加納城の大手門跡の石碑がある交差点から加納城跡に向かうことが出来ます。
朝7時15分に可児のホテルを出て9時間55分、ようやく今日の目的地 加納宿は岐阜駅に到着です。
時刻は17時10分、すでに日は落ちて暗くなってしまいましたが予定通り今日の歩き旅を終え帰宅の途につくことになりました。
結果的に今日の歩きはGPSログ記録で34.2Kmでした。