5月ゴールデンウイークは中山道を軽井沢宿から下諏訪宿まで2泊3日で歩くことにした。
初日は東京駅6:28分発の朝一の新幹線で軽井沢駅に降り立ち、軽井沢から望月宿まで歩くことにしたものですが、この区間は距離が31.5Kmもあり、本来なら塩名田か八幡あたりで宿泊したい所ですが、残念ながら付近には宿泊施設がないため少し頑張って望月宿まで歩くことにしたものです。
軽井沢駅に7:34に到着。
駅前の桜は丁度満開でした。
早速準備を済ませ、7:40分に隣の水掛宿に向かい歩き旅スタートです。
歩き始めて丁度1時間で、しなの鉄道の中軽井沢駅前を通過。
ここはもう沓掛宿になるが、沓掛という地名は中軽井沢に変わってしまって現在は駅名も中軽井沢駅になっており、なんとなく寂しい気がする。
追分の一里塚の先にこの追分郷土館がある。
追分の歴史を知ろうと入館料400.-を払って入ったが、残念ながら特別に目を引く展示物もなく、写真撮影も出来なかったため結果的にあまり印象に残るものがありませんでした。
近くの堀辰雄文学記念館の入口に追分宿本陣の裏門が移築され残っている。
明治の末に隣の御代田町の内堀家の表門として移築されたものが2005年に内堀家より軽井沢町に寄贈され、堀辰雄文学記念館の門として移築されたということです。
裏門と云っても重厚感溢れる見事な門でした。
ここが中山道から北国街道(右)が分岐する追分の分去れです。
中央にある延宝7年(1679)に建立された道標をはじめ、常夜燈や子供を抱いた子育地蔵など石造物が多数設置されています。
沓掛宿、追分宿と歩き小田井宿にきました。
ここは小さな宿だったようですが、今も連格子が美しい問屋(安川家住宅)など昔のたたずまいを残す家屋も多く残っており風情を感じます。
岩村田宿は本陣は無く旅籠も少ない宿場だったようで、この西念寺や龍雲寺などを本陣代わりにしていたそうです。
京から将軍家へ嫁ぐ姫官を茶亭を設けてもてなしたと云う相生の松。
現在の松は三代目のようですが、永く受け継がれていく様子を見るのはうれしい。
塩名田宿に入り、千曲川の河川敷に残る「船つなぎ石」を見学。
塩名田宿付近の千曲川は、洪水のたびに橋が流されることから、明治に入って川に九そうの船をつないで、その上に板を架けることで渡川をしていました。
その際、船をつなぎとめるために使われたのが、この大きな穴の開いた「舟つなぎ石」です。
明治25年(1892年)に木橋が架けられたことから、船橋とともに舟つなぎ石はその役割を終え、今は昔の渡川の苦労を物語る歴史遺産として河川敷に残されています。
遠くの浅間山を背にしてたたずむ江戸時代初期に作られたという大日像は、とにかくシンプルな作りで、特徴的な形から純朴な印象を強く受けます。
いつまでも記憶に残りそうな石仏でした。
側面からのその特徴的な様子が伺えます。
八幡神社に入るとこの随身門があります。
建立は天保14年(1843年)で今から170年ほど前のようですが、二階建ての見事な楼門です。
両脇の間には剱と弓矢を持った武官が控えていました。
八幡神社の境内にはこの高良社があります。
国の重要文化財に指定されているという社殿は3間社、ながれ造、こけら葺の構造で五百年前の姿を今に伝えている。
ここが、八幡宿本陣跡です。
中には入ることは出来ません。
ようやく、瓜生坂の上に着きました。
ここに百万辺念仏塔(左)と石仏があります。
中山道はここから戻るように下る細い道に入るようでしたが、私はそのまま車道を歩いてしまいました。
瓜生坂から下り始めるとようやく今日の宿泊地の望月宿が眼下にみえてくる。
午後5時20分、ようやく本日の宿泊先の青木荘に到着です。
軽井沢駅から歩き始めで9時間40分、GPSログで距離34.5Kmの歩きでした。
明日は和田宿までの歩きで、今日よりは距離も短く大分楽になる。
2日目の望月宿から和田宿の歩きはこちら