熊谷のビジネスホテルで一泊し、二日目の歩き旅を再開。
今日は一気に埼玉県を抜け新町駅まで歩きたいところですが、帰宅のことを考えると本庄宿までの歩きとするのが無難なため、神保原駅を目指し歩くことにした。
早朝、ホテルでの朝食前に散歩がてら高城神社に行き、まず参拝を済ませる。
本堂の前にそびえるご神木のケヤキはこの神社の歴史を感じさせる見事なもので、樹齢800年以上といわれるものです。
ホテルに戻り、改めて中山道の旅をスタートさせ、まず熊谷寺(ゆうこくじ)に立ち寄りました。
が、残念なことに朝が早いためか、門が閉ざされ境内に入ることが出来ませんでした。
美しい庭を眺めたかったのですが残念です。
そして星溪園にも立ち寄りましたが、ここでも開園が9時からということで、1時間ほど早すぎ見学することは出来ませんでした。
事前調査不足でした。
残念。
市指定史跡の新島の一里塚はこんな形でした。
惜しくも幹が途中で折れてしまっていますが、それでも樹齢300年以上というのケヤキの大木はまだ新しい枝を延ばしています。
宝暦6年(1756)の『道中絵図』に一里塚が描かれ、「榎二本つづきつく」とあるそうですが、現存するこの大木は不思議なことにケヤキとなっている。
ここにある石標は安永9年(1780)に忍藩主が領地の境界を示し、他藩との争いを防ぐため建てた石標です。
もともと16ヶ所に建てたようですが、現在残っているのはこの石標のみで、「従是南忍領」と刻まれています。
深谷城主の上杉憲英(のりふさ)が創建した寺院。
国済寺の名前は、「安国済民(国を安んじ、民を済度する)」に由来しているという。
丁度、境内のつつじが見頃で、彩りを添えていました。
入口にある、この黒門(総門)、そして奥に見える三門(下)はともに江戸時代の建立で深谷市指定文化財になっている。
この三門の奥が本堂で、大変広い敷地です。
東京駅の丸の内側駅舎をモデルにした赤煉瓦風のもので、郷土の渋沢栄一が深谷に日本煉瓦製造会社を創設し、ここで製造された煉瓦が東京駅の駅舎を建設するためにも用いられことから、深谷駅の駅舎が赤煉瓦風の造りとなったゆえんです。
源勝院は、岡部の地を領地とした阿部家の菩提寺。
この山門は室町時代の建築様式を残す江戸時代初期の建立と伝えられている。
これらが建立されたのは、幕末、万延元年庚申の年(1860)で、岡の有志13人により計画され、翌年の万延2年にかけて完成されたということだ。
干支は60年周期ですので、最近では1980年(昭和55年)となり、次の庚申の年は2040年となる。
中山道のバイパスを越え、少し歩くと小山川に架かる滝岡橋を渡る。
この橋は昭和3年に建設された橋で、橋台にイギリス積のレンガ、欄干や親柱には花崗岩が用いられている国の登録有形文化財というものだ。
橋を渡ると土手にヤグルマギクの群落が見られました。
青、白の他に紫色もあり綺麗でした。
寺院にしては変わった印象だ。
本庄市立歴史民俗資料館は、明治16年(1883)に本庄警察署として建設され、本庄宿ではじめての本格的な洋風公共建造物でした。
これを改修・修復して資料館として利用しているものです。
木造2階建て瓦葺きのモダンな建物の内部は、市内の古墳の発掘資料など多数展示されていました。
なかでも「前の山古墳」から出土した、笑う表情の埴輪が印象的でした。
中山道の街道沿いにある小さな浅間神社があるが、この小高い山が浅間山古墳だ。
古墳は直径約38m、高さ約9mの円墳で、古墳時代末期の築造で、横穴式の石室が確認できる。
付近に川があるようには思えないが、ここに橋の跡と石碑、庚申塔が建っている。
石碑に、かって徳川の世に伝馬役に苦しみ涙を流した由来が記されている。
結局、神保原駅に到着したのが16:50で出発から9時間15分を要していました。
途中、「六助うどん」にて50分ほどの昼食休憩がありますので、実質時間は8時間25分、GPSログでのは距離32.2Kmでした。