東海道五十三次の歩き旅も今回23日目で関宿からのスタートとなる。
今回は2泊3日で関から水口、水口から草津、草津から京都三条大橋まで一気に歩く予定で、4年目にしてようやく目標を達成することになる。
小田原からの新幹線で名古屋から関西本線の関駅に行くのにyahooの乗り換え案内だと最も早く着くのがAM10:16着と出て最初は面食らったが、よく調べていくと近鉄名古屋で乗り換え時間が5分しかないが乗れそうな電車がありこれで行くことにした。仮にその次の電車でも桑名での乗り継ぎ時間が3分と少ないがリカバーできそうなのでこの計画で行くことにした。
結果的に予定通りの移動ができ関駅にAM9:14に到着です。
9時20分には支度を済ませ関駅からの歩き旅スタート。
今日は平日のため、この時間では関宿のメイン通りの人影はほとんどない。
西の追分に30分ほどで到着。
旧東海道が国道1号と合流する地点が西の追分で東海道と大和街道の分岐点になっている。
ここにもこんな休憩所が設けられていました。
街道沿いに筆捨山の説明板がありました。
写真の手前の低山が筆捨山のようで案内板に「東海道から見ると鈴鹿川を挟んだ対岸に位置する、標高289mの山である。
もともと岩根山と呼ばれていたが、室町期の画家狩野法眼元信がこの山を描こうと筆をとり、翌日描き残した分を続けようとしたところ、雲や霞がたちこめ山の姿が全く変わってしまったため描き足すことができず、あきらめて筆を投げ捨てたことからこの名がついたと伝えられる」とある。
緑で覆われたこの季節は岩肌も隠れ平凡な山の印象しかないが・・・
坂下宿の法安寺の庫裡玄関には旧本陣である松屋の玄関が使用されており、この宿で唯一当時のものが残っている遺構ということですが、重厚で立派な門です。
東海道もこの片山神社の前から石畳のジグザクの坂道となる。
この神社に立ち寄ってみたいと思いましたが、老朽化が激しく立ち入り禁止の立札がありました。
鈴鹿峠のあたりは「鈴鹿山八丁二十七曲がり」と呼ばれたようであるが、今は石畳の道や、国道1号の高架下をくぐるなど整備された道を15分ほど歩くと坂道を登り終えることが出来る。
途中眼下に国道が望めました。
登り切った付近から「鏡岩へ150m」の標識があったので立ち寄ってみることにしたが、その鏡岩はこの岩場のことのようで何の変哲もないただの岩でした。
この石を磨けば光沢のある肌になるのでしょうが、少し期待外れでした。
元の道に戻り少し進むと目の前に茶畑が広がる美しい風景が広がっています。
そして、その茶畑の前に万人講常夜燈があります。
江戸時代の中頃、四国の金毘羅参りの講中が道中の安全を祈願して建立したもので、元々は東海道沿いにあったものだが、鈴鹿トンネルの工事のために現在の位置に移されたそうです。
重さ38t、高さ5m44cmと云う巨大なものだ。
万人講常夜燈がある鈴鹿峠から国道をひたすら歩きようやく道の駅「あいの土山」に到着。
少々遅いが、ここで昼食休憩とする。
土山宿に入ると街道沿いに古い町並みの様子がうかがえます。
この扇屋伝承文化館は、今日は休館のようで入れませんでしたが、江戸時代に扇や櫛を販売していた商家だったということです。
近くの東海道伝馬館は昔の街道の様子やこんな大名行列の様子など無料で公開され分かりやすく説明されています。
東海道五十三次を盆の上でなみ模した沢山の作品も展示してあり精緻な作りに感嘆しました。
土山宿から水口宿へ向かう途中に松並木続く場所があります。
水口宿東見附跡にようやく到着。
今はモニュメントとして設置されているものですが、いよいよ今日のゴール地点の宿場に着いたという思いです。
町並みは古き時代を思わせる落ち着いた様子が随所で見られます。
町中に「山蔵」なる曳山を収める蔵がありますが、ここは丁度扉が開いていましたが中はカラでした。
水口には現在16 基の曳山が保有されているようですが、この旅籠町はこの曳山が収められているようでした。
街角に曳山祭りの様子を模したこんなからくり時計がありました。
9時から18時まで3時間おきに動くようです。
タイミング良く見れると良かったのですが・・
関宿の関駅を出発しておよそ8時間55分の歩き旅で、ナビの記録では距離31.1Kmの歩き旅でした。
ほぼ予定通りの時刻で宿に入り、早速一風呂そしてすぐ夕食とのんびりした一時を過ごす。