前回に引き続き吉田宿からの旅を再開させるため、豊橋駅前の第一ホテルに前泊し、朝食後さっそく旅をスタートさせた。
今日も吉田宿から御油・赤坂・藤川・岡崎宿とめぐり名鉄名古屋本線の岡崎公園駅までの長丁場の歩きなので、あちこち見て廻るような余裕の旅ではなくひたすら歩く旅になる。
豊橋駅から歩き始め豊川の大きな橋を渡って左に折れると、すぐに右手に聖眼寺がある。境内には芭蕉の句碑 「ごを焼(たい)て手拭あぶる寒さ哉」がある。
この「ご」とは松の葉のことと云うことで、これが松葉塚と呼ばれる由縁だ。
下地町に入ると道筋にご覧のような古い家並が随所に見られ、歩いていてもよくここまで残っているものだと感心させられる。
そして、街道から少し引っ込んだ所に瓜郷遺跡があるので、寄ってみた。
この遺跡は弥生時代~古墳時代初期の集落で昭和22年からの発掘調査で土器、石器、骨角器、木製農具などが出土し、出土品は豊橋市美術博物館に展示されていると云う。
7世紀後半に建てられたといわれる菟足(うたり)神社は菟上足尼命(うなかみすくねのみこと)が祀られています。
毎年、稲の豊作を願った「田祭り」と、手筒花火など様々な催しが行われる「風祭り」が恒例になっているようです。
拝殿の中にこんなリアルな兎の置き物もあり驚かされました。
また、田祭りと風祭りの様子を記録したパネルも展示されていました。
御油宿の本陣跡地のカンバンを過ぎて少し歩くと、御油の松並木になる。
国の天然記念物に指定される松並木でおよそ600mに渡って見事な並木が続いている。
ただ、ここは狭い道幅なのに交通量が多く、歩道がないため始終車に気をつけて歩かなければならないのが残念だ。
もう少しのんびり歩けるように歩道など整備したいところです。
下地町でも古い家並みが残っているが、この御油も歴史的景観をとどめているような街並みが見られる。
赤坂宿に入り、浄泉寺に立寄る。
境内には広重が赤坂宿の「旅宿紹婦の図」で描いたとされる蘇鉄がある。
明治になって赤坂宿の旅籠からこの境内に移植されたとされる推定樹齢270年とう蘇鉄だが、本堂前にいまだ緑豊かな様子は衰えたを感じさせない。
その旅宿紹婦の図です。
そして近くには現在も旅館として営業していると云う大橋屋があります。
正徳5~6年(1715~6年)頃の建物で、市の指定文化財にもなっていると云うことですが、建物はまだしっかりした様子で驚きました。
杉森八幡宮には一つの根株から二本の幹が出ている夫婦楠があります。
推定樹齢1000年と云うことですが、くすのきもここまで歳を重ねると神々しさが漂ってます。
本宿に入る手前あたりは国道1号線と名鉄名古屋線と東名高速が平行して走る区間が続くが、ここに国道1号の313の距離標がありました。
国道を歩いているときはこの標識で歩いた距離を確認してますが、日本橋からもう300Kmを越えたかと思うと感慨ひとしお。
おいしそうなお豆腐が食べられそうです。
本宿の法蔵寺に立寄りました。
徳川家康が幼い頃に手習いを学んだとされる遺品が現存しているというお寺ですが、山門横の藤棚のフジが丁度満開で見頃でした。
藤川宿脇本陣は大西喜太夫橘屋の跡で、門は当時のものだそうです。
明治以降は村役場などとして使われていたと云う。
西大平陣屋跡は、大岡越前守忠相が享保2年(1717年)に江戸町奉行になり19年間勤めたが、その後寛延元年(1748年)に一万石の定府大名となったおり、西大平藩主として陣屋を築き、以後明治まで7代続いた。
現在、遺構は残っておらず、内部は小公園となっている。
日本橋から80里にあたる大平一里塚は、北側は道路改修の際に消滅したものの、南側の塚は楠は代替わりしたものの現存しており、昭和12年に国の指定史跡となっている。
塚の大きさは高さ2.4m、縦7.3m、横8.5mの立派なものだ。
岡崎城下の27曲りの東口に立派な碑がありました。
ピカピカの石碑に歴史的な背景が刻まれていましたが、光って読みずらく写真も撮れない。
実は、この岡崎宿にさしかかる前辺りから、ハンデーナビに入れてあったはずの東海道のルートナビの入力がされていない事に気付き、この先 持参の東海道散策マップを頼りに歩かなければならなくなってしまいました。
27曲りの曲り角にはご覧の道標がありましたので、地図とこの道標を頼りに歩きます。
でもこの道標を1ヶ所見落としたのか、間違えもありました。
今日は、結局昼食もとらずに大分欲張って歩き、ナビの歩行記録で
距離 37.7Km 、時間 10時間20分で、この岡崎公園前駅から豊橋に戻り新幹線で帰路につきました。