中山道の歩き旅の3回目は、5月の連休でもあるため1泊2日の歩き旅を計画し、今日は前回の終了地点の北上尾駅から旅を再開し、桶川・鴻巣そして熊谷まで歩く予定だ。
そして熊谷のビジネスホテルで一泊し、2日目は深谷・本庄を歩き、神保原駅から帰路につくという歩き旅だ。
北上尾駅から20分ほど歩くと、まずこの竹村旅館を目にすることができる。
この旅館は明治の末期に改築されたそうですが、間取りは建築当時のままという建物で、現在も旅館として営業中です。
次が、穀物問屋だった矢部家の土蔵造りの「店蔵」です。
明治38年に建てられたもので、桶川市で現存する唯一の店蔵で歴史的にも貴重な建物です。
ここは桶川宿本陣遺構ですが、奥の門に「本日は公開日ではありません。これより先の立ち入り禁止」の貼り紙があり残念ながら内部に入ることは出来ませんでした。
樹齢約200年で県指定の天然記念物。
幹の上部は折れてしまっているが太い幹から強い生命観が感じとれる。
見上げると茶色の実が沢山なっていたが、この種子が羽根突きのあの黒い玉として使われることは知らなかった。
さすがに、ひな人形の町だけに街中には人形屋さんが軒を連ねウインドウを覗きながら歩いてきましたが、ここ「ひなの里」には江戸時代から明治・大正・昭和の雛人形の展示があり興味深く見学させていただきました。
これは、明治初期の「古今雛九番親王芥子五人囃子」と云うことです。
入り口に立派な仁王門があり驚きました。
本堂の右手には「なんじゃもんじゃ(ヒトツバタコ)」の木があり丁度花の見頃となっていました。
たぶん初めての対面と思うが、びっしり付けた花が全体を覆い見事でした。
寺の紋所を加賀前田家と同じ梅鉢紋の使用を許されたということです。
これは、かつて中山道に在った市神社が明治3年(1870)の強風で倒壊したため、狛犬のみをここに移したことによるものだそうだ。
鴻神社は明治6年にこの付近にあった三ヶ所の神社を合祀したもので、もとは鴻三社といわれておりましたが、明治40年に鴻三社を『鴻神社』としたそうです。
社殿の両脇にある夫婦イチョウも見事ですが、左手にはここにも「なんじゃもんじゃ」の木があり、満開の花を咲かせていました。
今日の目的地熊谷宿まで三里三十二町(約十五粁)とあります。
まだまだ先は長~い。
蓑田追分付近にも案内板がありましたが、間の宿吹上にもこの案内板がありました。
中山道分間延絵図上に現在地が赤丸で示されています。
この英泉の「吹上富士遠望」もありましたが、この付近からこんなすばらしい景色が望めたようです。
権八延命地蔵堂
このお堂の中が権八延命地蔵、別名「物言い地蔵」である。歌舞伎にも登場し、後に処刑される白井(平井)権八がこの堤で絹商人を殺害。傍の地蔵に「誰にも言うな」と口止めしたところ、「わしは言わぬが、おぬしも言うな」との言葉が返ったという伝説によるものです。
左手にあるのは二宮金次郎の像でしょうか、なぜこの場所にあるのかは不明です。
権八延命地蔵堂のすぐ先から荒川の土手の上を気持良く歩きます。
この付近から川まではまだ500mほどはあるため、川の流れはまったく見ることは出来ません。
久下一里塚跡
荒川の土手の上からこの鳥居を見つけ、草むらをかき分け土手下に下りると、こじんまりしたお稲荷さんがありました。
ここが久下一里塚跡で、奥の社の近くに一里塚の案内板がある。
隣に大きなマンションに比べすっかり目立たない存在になっている。
みかりや跡は現在まったく遺構もなく、この案内板で茶屋のいわれが確認できる。
かってこの場所に人気の茶屋「御狩屋」があった。
忍(おし)藩主が鷹狩りの時に休憩所として利用したことから「みかりや」と呼ばれたという。
気になったのが、本堂の正面左右の柱にある獅子彫刻です。
他ではあまり見かけない珍しいものでした。
中山道沿いに予約したホテルを確認し、長い一日もようやく終了。
GPSログデータで30.2Km、昼食の時間を含めて丁度9時間の歩き旅でした。