今回の東海道五十三次きまま旅は桑名から庄野宿までの少し欲張った歩きになってしまった。
石薬師あたりに宿泊場所があれば丁度良かったのだが、残念ながら鈴鹿市の平田駅近辺にしか宿がなかったので、結果的に庄野宿までの長い歩き旅とせざるを得なかった。
自宅を早朝出発し小田原から新幹線で名古屋を経て朝8時過ぎに桑名駅前に降り立ち、出発点である「7里の渡し跡」から今日の長旅をスタートさせる。
桑名の駅前から真っ直ぐ歩いてくると、かっての桑名城の跡地におおきな広場があり、ここにご覧の本多忠勝候の立派な銅像が建っている。
本多忠勝は慶長6年(1601)の桑名城主となり、「慶長の町割り」といわれる町の大改造を行ったということだ。
広い公園広場の並木を眺めながら歩くと、河口に面してこの復元された蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)がある。
歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」でも、桑名はこの櫓が象徴的に描かれています。
「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことで水を司る聖獣、航海の守護神として据えられたものと考えられている。
熱田・宮の渡しから桑名宿までを海上七里の渡船と定められたことから「七里の渡し」と呼ばれ、当時はこの渡船場付近がにぎわっていたのでしょうが、今は静かな住宅街の一角の公園の趣です。
ここにある大鳥居は、ここから伊勢路に入ることから「伊勢国一の鳥居」と称され、伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられるというものだ。
東海道に面した所にこの青銅製の鳥居がある。
城主 松平定重侯が寛文7年(1667)に鋳物師 辻内種次に命じて建立させたもので、桑名の名物として今も昔を語っている。
町屋橋近くに伊勢両宮常夜灯がある。
非常に大きくしっかりしたものだ。
文政元年(1818)に東海道の灯標として伊勢神宮への祈願を込め桑名や岐阜の材木商人達によって寄進されたといわれ、往時の東海道をしのばせる唯一の遺物になっている。
傍には明治26年(1893)に建立された里程標もある。
新設用水道碑の横にこんな力石が置いてあった。
子供用もあるが、大人用は120Kgほどで村人達が力自慢を競い合い 持ち上げたというものだ。
東海道は近鉄四日市駅近くになると、この商店街が連なるアーケードの中を通るが、丁度昼食時でもあったため中にあった洋食屋さんで食事をしながら少し休憩。
ここが東海道と伊勢参宮道の分岐点で、左いせ道、右京大阪道、すぐ江戸道と刻まれた大きな石の道標や燈籠がある。
中央には湧き水の水場があり昔から休憩場として重宝なものとして利用されていたようだ。杖衝坂
日本武尊が東征の帰りにこの坂で、たいへん疲れていたため杖をついて歩いたとされる事から、この名が付けられたと云う坂。
右は文化8年(1811)に設置された常夜燈。
石薬師の小澤本陣跡
石薬師宿は元和2年(1616)に開かれ、当時の石薬師寺が知れ渡っていたので、その寺名から村名にしたと云うことで、ここが石薬師の本陣を勤めていた小澤家の本陣の跡。
それにしても旧東海道に入ったとたん、人や車の通行がなく非常に静かな様子となり驚いた。
今日予定した庄野宿までの歩きを終え宿泊先のホテルに向かうため鈴鹿川に架かる庄野橋を渡った所で日没となる。
この後、平田駅近くのスーパーホテル鈴鹿に18時33分に到着。
朝8時15分ごろから歩き始め、およそ10時間15分をかけて桑名から庄野宿の歩きを終える。
ちょと長い歩き旅でナビの記録で距離37.5Kmでした。
明日は、庄野から関宿までの歩きのため幾分距離が短く楽な旅が出来そうだ。