東海道きまま旅2日目は宮宿のホテル「エクセルイン熱田」からスタート。
昨日は岡崎公園前駅からこの宿までのおよそ32Kmの歩きをこなしたが、今日は七里の渡場跡を見学したあと佐屋街道にて岩塚宿、万場宿、神守宿、佐屋宿と歩き、そこからは昔は桑名まで船旅ということだったのだろうが、弥富を経て桑名まで国道1号をひたすら歩くことにした。
前日の岡崎宿からの歩きの終点はこのエクセルイン熱田だったが、今日も桑名までの歩きの予定があるので早めにホテルで朝食をすませ7時50分このホテルを出発。
伝馬町の大通りの歩道橋を渡るため100mほど回り道をし、町の西側の突当りでこの三叉の道標を確認。
この道標は東海道と美濃路(佐屋路)との分岐点にある道標で、現在も1790年に建立された場所と同じ位置にあるそうだ。
ここ宮宿から桑名の宿まで当時は海上を七里(28Km)を行くのが一般的であったようで、七里の距離から「七里の渡し」と呼ばれるようになった。
現在、この地から海までは埋立てにより優に3Kmはあるが、当時はこの近くが湊であったのだろう。
ところで、宮宿の宮は熱田神宮の宿ということから宮宿と云われるようになったというそうだ。
七里の渡し場からその熱田神宮へ移動。
年末であっても流石にここは朝から多くの人でにぎわっている。
ここで、参拝を済ませ今日の長い一日がスタート。
熱田神宮境内にはこんな見事な楠の大木がある。
幹周りは8.7m、樹齢およそ1000年というこの楠の木は手を合わせたくなるような神々しさがある。
熱田神宮神宮を出て北上し、金山駅近くの佐屋街道へ向かう角に新尾頭の道標がある。
この道標は北へ名古屋、南は宮(熱田)、西は佐屋への追分であることから「三所の堺」とも呼ばれた。
そして新尾頭の道標から25分ほど歩くと立派な佐屋街道の標石を見ることができる。
近くには説明板もありこの街道の生い立ちが書かれている。
「この街道は、熱田(宮)宿と桑名宿を結ぶ七里の渡しの風雨による欠航や、船酔いを嫌う多くの旅人が行き交い、東海道の脇往還として非常に賑わっていた。」ということだ。
七所社の境内には日本武尊前の腰掛岩や写真の奈良時代初期と伝えられる古塚があり「岩塚」という地名の由来になっている。
庄内川にかかる万場大橋を渡ると秋葉神社がある。
ここは当時の渡し場があったところで現在ここに常夜燈が残されている。
七宝町に入り七宝焼原産地の道標を確認。
この道標は明治28年に建てられたもので、碑の上部にローマ字でShippoyaki Toshimaと記されているが明治のころ七宝焼は輸出の花形で外国人が買いつけに来ていたことから、こんなローマ字の道標が建てられたそうだ。
神守宿に江戸から93里目という一里塚があった。
現在、街道の北側に高さ1.5mの小山にムクが植えられた塚が残っているが、この東海道から外れた佐屋街道にもこんなに立派な一里塚があるとは思っていなかったので、認識を新たにした。
佐屋の湊から佐屋川を下って桑名までの船旅は3里を数えたので3里の渡しと呼ばれたそうだが、その渡し場址にこの「佐屋三里之渡址」碑が建てられている。
舟数44艘、小渡船10艘、水主82人だったが、砂の堆積が進んで明治30年に佐屋川が廃川になり農地にに開墾されその役目を終えた。
16時40分ごろようやく長良川と揖斐川に架かる伊勢大橋に来たころ日没となる。
長いこの橋を渡り、すっかり暗くなった17時20分、ようやくJR桑名駅のゴールに到着。
GPSの記録で歩行距離38.8Km、途中20分ほどの昼食休憩を含め9時間30分の歩き旅でした。